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April 17, 2005 - April 23, 2005

2005.04.23

新入社員理想の社長像は堀江社長

堀江社長ライブドアはニッポン放送株をフジテレビジョンと共同保有しているとする大量保有報告書を関東財務局に提出した。
 ライブドアとフジテレビによる和解では、6月の同放送の株主総会で「ニッポン放送の取締役会が提出する議案に賛成の議決権を行使する」との内容が盛り込まれており、それに沿った形に保有状況を改めたとみられる。両社の同放送株の保有比率は合計で86・47%となった。
 また、ライブドアの堀江貴文社長も同放送の買収資金を調達するため米系のリーマン・ブラザーズ証券にライブドア株約4700万株を貸し出した契約を解除した、との大量保有報告書を同財務局に提出。堀江社長のライブドア株の保有比率は24・14%となった。

東京商工会議所が発表した新入社員意識調査で、理想の社長像としてライブドアの堀江貴文社長が1位に選ばれた。「新しいことへの挑戦や行動力がある」「先見性、創造力がある」などが理由。
 東商は「社員を自ら統率し、新規事業に積極的に取り組む活動的な経営者像を思い描いている」と分析している。
 2位はプロ野球元監督の星野仙一氏、3位はタレントで映画監督の北野武氏。
 東商が今月4―8日に開いた研修に参加した中堅、中小企業345社の新入社員を対象に調査。回答したのは826人で、堀江氏を選んだのは男性28人、女性8人の計36人。

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2005.04.22

北島5年ぶり日本人に負けた

北島康介北島が負けた。男子二百メートル平泳ぎ決勝で、昨夏のアテネ五輪2冠の北島康介=日本コカ・コーラ=が3位に敗れ、この種目で7月の世界選手権(モントリオール)代表を逃す大波乱が起きた。泳ぎに本来の切れがなく、150メートル手前でアテネ五輪代表の今村元気=ムラサキスポーツ=に逆転され、ゴール直前に2002年パンパシフィック選手権銅メダルの木村太輔=自衛隊体育学校=にもかわされた。北島が日本選手に敗れたのは、4位に終わった00年4月の日本選手権二百メートル平泳ぎ以来5年ぶり。
誰もが目を疑った。二百メートル平泳ぎ決勝で世界王者がまさかの失速。国内で5年ぶりに日本人選手に敗れただけでなく、世界選手権派遣標準記録すらも切れず。ゴール直後、電光掲示板を振り返った北島はぼう然自失。「故障はないし、泳ぎも悪くない。これがいまの力。二百メートルを泳ぐ力がなかった」と唇をかんだ。
 最速のスタートで水に飛び込み、浮き上がりと同時に、2位の今村に体半分の差をつけた。持ち前のストロークの大きな泳ぎで加速。だが、100メートル過ぎからストローク回数が増え、次第に今村との差が縮まった。150メートル手前で今村に逆転を許し、ゴール10メートル手前で木村にまでもかわされ、3位に沈んだ。日本コカ・コーラ社のロゴ入り水着に身を包んだ、社会人デビュー戦でまさかの黒星。「こんな結果で僕自身が一番残念。本当にがっかりした」と吐き捨てるように言った。
 明らかなスタミナ不足だった。00年シドニー五輪から04年アテネ五輪までは、毎年10~12月は筋トレでの体づくりに充てた。だが、昨夏のアテネ五輪で日本競泳史上初の個人2種目制覇の偉業を成し遂げた北島は、祝賀行事に大忙し。練習を開始したのは、例年より1か月以上遅れた11月末。「全体的なトレーニングが深いところまでできなかった」と平井伯昌コーチも嘆いた。
長水路シーズンに向けた3月11日から4月6日までの高地合宿(米アリゾナ州フラッグスタッフ)でも序盤に風邪をこじらせ、5日間練習できず。後半の2週間は、1日1万1000メートルを泳ぎ込んだが「フラッグに行く前に体調を崩したのが響いた」(北島)。世界一の泳ぎは取り戻せなかった。

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2005.04.21

清原2発!500号王手!

清原和博清原のバットが大爆発だ。初回の先制2ランに続き、8回にはダメ押しの7号と今季初の1試合2発。通算本塁打は499本で、500号の大記録にリーチをかけた。主砲の猛打に引っ張られ、キャプラー、高橋由もアーチを運び、今季最多の9得点。投げてはエース・上原―佐藤宏が、こちらも今季初の完封リレー。最高の勝ち方で波に乗った巨人。借金返済と清原の記録達成を狙う。
打球の行方を必死に目で追った。清原は一塁に全力疾走しながら、打球から一瞬たりとも目を離さなかった。左翼席で白球が弾むのを見届けると、白い歯をこぼしながら、ダイヤモンドを一周した。
 すでに勝敗は決していた。が、この日一番の歓声は清原の“リーチ弾”に注がれた。8回2死から杉山の145キロの直球を強振。「由伸が打った後で、どさくさにまぎれて打たせてもらったようなもんです」と謙そんしたが、通算499本目は相手のすきを見逃さない、完ぺきな一打だった。
 大観衆を魅了したのが7号ソロなら、勝利を呼び込んだのは初回の6号2ランだ。2死二塁から、福原の149キロの外角直球を右翼席へ。「昨日は満塁の場面で打てなくて悔しい思いをしたので、強い気持ちを持って踏み込んでいこうと思っていました」屈辱を晴らし、チームに勢いをもたらした貴重な一撃だ。
 「今までで最高の仕上がり」開幕前に口にした言葉にうそはなかった。まだ17試合ながら7本塁打、18打点。“2冠”に躍り出た。「トレーニングで体を追い込んできた成果が出たと思います」4月の月間7発も自己新記録。その勢いはとどまるところを知らない。
 快進撃を続けているが、37歳。開幕から全試合に出場している下半身には疲労がたまってきている。それでも、グラウンドに立ち続ける。自分のため、そしてチームのために、だ。

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2005.04.20

ミセリ解雇…巨人史上初4月通告

ミセリ巨人は調整法をめぐり首脳陣と対立していたダン・ミセリ投手の解雇を発表した。メジャー通算35セーブをマークし、堀内巨人の新ストッパーとして期待されながら開幕から不振続き。加えて右肩違和感も訴えるなど、球団側は再生不可能と判断。開幕からわずか15試合、球団史上最速となる電撃解雇となった。ミセリ抜きの陣容で再出発したG投だが、試合の方は7回に高橋尚、岡島の両左腕が阪神打線に一挙7点を奪われ、敗れた。
まさに電撃解雇だ。巨人はこの日、セ・リーグにミセリのウエーバー公示の手続きをとった後、桃井恒和球団社長が東京ドーム内で緊急会見。「期待していただけに極めて残念。フロントとしても責任を強く感じている」と沈痛な面持ちで話した。開幕してからわずか15試合、4月中の外国人解雇は球団史上最速となった。
 こんな助っ人ではなかったはずだった。懸案のストッパー補強を目指し、昨年末に球団が綿密にリサーチした上でミセリに白羽の矢を立て、ビデオで検証。最速153キロの剛球に落ちるタテのスライダーを操る映像を見た堀内監督ら首脳陣も獲得に太鼓判を押したが、今年2月のキャンプに来日し、オープン戦を通じて、球速とコンディションは上がらず、首脳陣からは「別人が来たのでは」の声も漏れていた。
不安は的中した。開幕戦で1点リードを守れず、2被弾3失点で救援失敗。横浜戦(横浜)では同点の延長12回から登板し、サヨナラ敗戦投手。堀内監督も中継ぎ降格を告げ、ファームでの調整をうながした。しかし、契約上、調整については本人の意向が最大限尊重されることになっており、ミセリも1軍での調整を強く希望。首脳陣との間で調整をめぐって話し合いが持たれたが、決裂していた。
ヤクルト戦(神宮)の試合前には右肩痛まで訴えた。桃井球団社長も「いつ投げられるかメドが立たないと本人は話していたが、投げられない投手を1軍には置いておけない。本人は下はイヤだ、と言っていたが、再生できるか疑問もあった。本人と合意して契約解除になった」と説明。ミセリの“1軍枠”を有効活用するためにも、異例の早期解雇につながった。
 帰国する渦中の助っ人は荷物をまとめに正午過ぎ、東京ドームを訪れたが、報道陣には「ノーコメント」と話し、早々と姿を消した。その後、都内の高級マンションに家族を迎えに行き、浅草へ観光に出かけた。人力車に乗り、浅草寺を参拝するなどしたが、報道陣の問いかけには「オレはミセリじゃない。質問は受け付けない」と両手を広げた。

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2005.04.19

江川球界復帰

江川卓元巨人投手の江川卓氏(49=野球評論家)が、社会人野球のクラブチーム「サウザンリーフス市原」の投手コーチに就任することが18日、分かった。5月5日、萩本欽一監督(63)率いる茨城ゴールデンゴールズ戦で背番号「30」を背負い、ユニホーム姿で復活することになる。

'73年 春夏甲子園に出場
'74年 作新学院卒業
'74年 法政大学に進学
'79年  巨人に入団
   在籍9年間 ・MVP1回('81年)
    ・最多勝2回('80、'81年)
    ・防御率1位1回('81年)
    ・ベストナイン2回
'87年 引退
日本テレビ専属野球解説者のほかに毎週日曜日朝の『徳光和夫のザ・サンデー+30』のコメンテーターとしても活躍中(日本テレビ系)

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2005.04.18

さくら咲いた泣いた初V 藍ももらい泣き

さくらさくらが咲いた。首位スタートの横峯さくらが土壇場の17、18番を含む4バーディー、3ボギーの71で回り、通算1アンダーでツアー初優勝。キャディーを務めた父・良郎さんとのコンビで、感動の涙を流した。1打差2位はジュリー呂(台湾)。ライバル宮里藍は4打差8位に終わった。
最終ホール親子げんか、たった70センチ先のカップが遠く見える。このバーディーパットを決めればツアー初Vだ。さくらは最後の試練を迎えていた。
 「お父さん、どうしよう。すごく緊張して手が動かない」
 「アホか! そんな短いパットにしびれるな。なら、外せ。プレーオフをやって大ギャラリーをもう1回、楽しませろ」
 「絶対に嫌だし!」
 横峯家の十八番、親子げんかをすることで、自然とプレッシャーから解放された。カッコーン! スムーズなストロークでウイニングパットがカップに沈むと、大歓声が沸き起こった。次の瞬間、涙がこぼれた。「優勝はまだまだ先と思っていたから…。実感はありません」
 先週のスタジオアリス女子オープンでも首位で最終日を迎えたが79と崩れ、3位に終わった。さくらの能力を100%引き出したのは、今季初めてキャディーを務めた父だった。「おれがいなかったら5オーバー13位だ。優勝はおれのおかげと言えよ」と話す良郎さんに対し、さくらは「半分はお父さんの力かもしれない。でも、ありがとう、とは恥ずかしくて言えません」と苦笑いした。
 破天荒ゴルファーらしい劇的な優勝だった。首位タイで迎えた16番パー3。グリーン左10ヤードからのアプローチを素人のようなトップのミスでボギー。2位に後退した。しかし、ここからが“さくら劇場”の開幕。17番パー4。約120ヤードの第2打をピン手前4メートルへ寄せてバーディー。そして、最終18番パー5。ドライバーで約290ヤードかっ飛ばした。池越えとなる残り約170ヤードの第2打を7アイアンで花道へ。アプローチを70センチまで寄せて、優勝を手繰り寄せた。
 ホールアウト後、「手に汗かいたよ。おめでとう」もらい泣きする親友の藍と抱き合った。「藍ちゃんが自分のことのように喜んでくれてうれしかった。少しは近づけたかもしれないけど、これからも目標であることは変わりません」と話した。
 念願の初優勝で賞金ランクは3位に浮上。海外メジャー初挑戦も見えてきた。「海外の試合も面白そうですね」父とけんかしながら、ライバルと競いながら、世界を目指す。

▽生年月日 1985年12月13日、鹿児島県鹿屋市生まれ。19歳。
▽さくら 生まれる直前、父・良郎さんがテレビで年末恒例の映画「男はつらいよ!」を観賞。寅さんの妹の名前が由来。
▽ゴルフ歴 父の指導で9歳から始める。
▽学歴 鹿屋市立田崎中から高知・明徳義塾高にゴルフ留学し、昨春、卒業。
▽ライバル 宮里藍とは小学校4年で初対決。ジュニア時代はタイトルを分け合った。
▽両親 父・良郎さん、母・絹子さん。
▽ゴルフ3姉妹 長姉・留衣は昨年、プロテストに合格。二姉・彩花さんもプロ志望だったが、今はサポート役。
▽血液型 AB
▽サイズ 155センチ、51キロ。

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2005.04.17

あのウィラポンに長谷川が勝った

長谷川穂積日本ボクシング史上に残る歴史的大勝利だ。挑戦者の長谷川穂積=千里馬神戸=が、WBC世界バンタム級王者ウィラポン・ナコンルアンプロモーション=タイ=と壮絶な打撃戦の末、3―0の判定勝ちで王座獲得。防衛14度の最強王者に9年ぶりの土をつける劇的な大金星を挙げた。長谷川の戦績は20戦18勝(5KO)2敗。日本のジムに所属する現役世界王者は、WBCスーパーフライ級の川嶋勝重(大橋)、WBCミニマム級の高山勝成(グリーンツダ)に加え4人となった。
長谷川が胸に最愛の息子・大翔ちゃんを抱いた。王座を奪取した歓喜のリング。思い描いた夢が現実となり、なかば放心状態。「夢のようです。今でも、夢じゃないかって思ってます」。腫れたまぶたに驚いたのか、小さな大翔ちゃんが、思わず泣いてしまった。
 最強王者からの、最高の勝利だ。辰吉丈一郎=大阪帝拳=が2度敗れ、西岡利晃=帝拳=が4度戦い一度も勝てなかったウィラポンを、ついに沈めた。序盤はペースをつかんだが、5回以降は相手の圧力に足が止まった。「迷っていた。足を動かしてもさばく自信はなかったし…」。接近戦で細かいパンチをもらい、窮地に立たされた。だが9回、強烈な左フックをヒットさせ、沈着冷静なウィラポンの表情が一瞬ゆがむ。10回は相手が前に出てくるところに20連打で応酬。圧巻は最終12回のラスト30秒。「倒れてもいいから打ち合おうと思った」の言葉通り、最後までパンチの嵐はついに途切れなかった。
父の魂が乗り移った。父・大二郎さんは、長谷川と同じバンタム級の元ボクサー。だが、2勝1敗の戦績を残しリングを去った。血管が収縮する病気によるドクターストップだった。ボクシングに残した思いは息子に託した。小学校に上がると、早朝ランニング、晩の特訓。サンドバッグをつるした18畳の部屋が、スパルタ教育の舞台だった。だが、過酷な練習に耐えかね、中学でボクシングから離れた。反抗期に親子の会話は激減した。
 転機になったのは挫折だった。単位が足りず、高校を2年で中退。ボクシングを始めることを条件に、地元の西脇から神戸に出ることを父は許した。7年後、息子はついに頂点に。リングが、絆を呼び戻した。

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